『キャプテン翼 RISE OF NEW CHAMPIONS』前日譚
試合終了のホイッスルが鳴った瞬間、スタジアムの観客席から一斉に悲嘆の声があがった。
フランスジュニアユースとオランダジュニアユースで行われた強化試合がフランスの完敗に終わったのだ。
凄まじい攻撃力でフランスを蹂躙したオランダジュニアユース代表キャプテン、ブライアン・クライフォートがインタビューに答える。
「強化試合ではありますが、この結果には満足しています。オランダの攻撃の完成度を――」
そのインタビューを聞きながら、フランスジュニアユースのキャプテン、エル・シド・ピエールは唇をかみしめた。
『オランダ戦の直後からフランスサッカー協会にはジュニアユース代表を応援するファンからの抗議が殺到している――』
オープンカフェのテーブルで友人二人とコーヒーを飲んでいた青年が、スマホでそのニュースを見ながらぼやいた。
「開催するはずだった『フランス国際ジュニアユース大会』がアメリカとかの横やりで急に中止になって、しかもそのアメリカで『ジュニアユース・ワールドチャレンジ』とかいう大会が開催されることになったんだ。文句も言いたくなるよ」
それに黒髪の友人が応える。
「けど一番腹立たしく思ってるのは、間違いなくサッカー協会さ。フランスサッカー界のプライドをズタズタにされたんだ」
「だからこそ協会は「大会を奪い取ったアメリカの地での優勝」を誓って、厳しい練習でチームの強化を行ったんだろう。けど、その結果が、あの体たらくじゃな」
青年が言うと、今度はもう一人の友人が口を出した。
「でも、成果はあったよ。ピエールとナポレオンが組んでの攻撃は世界に通用することが証明されたんだ」
これはその通りで、ピエールとナポレオンの攻撃でオランダから2点を奪っていた。
「問題は守備さ。守備を統括する、あるいは一対一に強いDFが誰もいないんだ」
「そうだなァ。それができるのはピエールだけど、ピエールが守備に回るとナポレオンが孤立してしまう。そうなったら攻撃が機能しない」
青年はコーヒーを一口すすって続けた。
「今度の大会にはオランダ以外にもドイツみたいに攻撃が強力なチームが多い。このままじゃ優勝はとても望めない。果たしてどうするつもりなのかな……」
その時、青年が見ていたサイトに新たなニュースが掲示された。
それは、このようなニュースだった。
『フランスサッカー協会、フランスジュニアユース代表選手の追加セレクションを行うことを決定』と――。
(セレクションを行うのはいいが、果たしてそんな救世主のような選手が埋もれていたりするものだろうか)
新たに指示されたディフェンス練習を見ながら、ピエールは口に出来ない思いを抱えていた。
(だが、守備を改善しなければフランスの優勝はない)
しかし、その思いをはっきりと、しかも罵倒という形で表現する者がいた。
「あーあ、こんなヘボDFとGKしかいないようじゃ、フランスの優勝はねえよなァ!」
声の主はナポレオンであった。
最初の頃はDFやGKも言い返していたのだが、オランダ戦で結果を残したナポレオンに対して、ディフェンス陣は6点も取られた事実が重い。
今もDFたちは苦々し気な表情を浮かべただけで言葉は出なかった。
「ケッ、言い返してもこねえのかよ。根性も度胸もねえ連中だな!」
「ナポレオン、いい加減にしろ」
さすがにピエールが止めに入った。
「彼らはフランス全土から集められた精鋭だ。歯がゆさは自分たちが一番感じているだろう」
「……あんな醜態をさらす奴らが精鋭だァ?」
わざと声を大きくするナポレオンにDF陣は顔をしかめたが、なにも言い返せない。その姿を見たナポレオンは舌打ちをして、ピエールに向き直った。
「なァ、本当にフランス全土から集めたのか?」
「本来はフランス大会のために、数ヶ月も前から準備して作られたチームなんだ。当然だろう」
「……じゃあ、なんであいつがいねえんだ」
「あいつ?」
「一年くらい前に対戦したクラブのDFなんだが、本当にしつこいヤツでな……汚えプレイを仕掛けてきた時にぶん殴ってやったんだ。そしたら殴り返してきやがってよ。結局、二人とも退場になっちまった」
「……そんなことだから『札付き』と言われるんだぞ」
ピエールが小さくため息をついたが、ナポレオンは気にする様子も無く続けた。
「けど、殴り返してきたのはあいつが初めてだったし、あんなに抑え込まれちまったのも初めてだった。だから覚えてるんだ……悔しくてよ」
話を聞いて、ピエールはそのDFに興味を持った。
ナポレオンを抑え込んだという実力、そして度胸と負けん気。もしそんな選手が代表にいれば……。
「まァ、オレ様を呼ばなかったような代表だ。あいつを見落としてても不思議じゃねえけどよ」
「ナポレオン。その選手の名前と所属チームを覚えてるか」
「確か……ジャン、だったかな。マルセイユの小さなクラブの選手だ」
答えて、ナポレオンは首をかしげた。`
「けど、そんなこと聞いてどうするんだ?」
「決まっている。実力を確かめに行くんだ」
その翌日、練習が休みだったことを利用して、ピエールとナポレオンは列車でマルセイユへ向かった。
「ナポレオン。別についてこなくていいんだぞ」
「ヘッ、あんな奴らといっしょにいるより、こっちの方が面白いに決まってるさ」
数時間後、マルセイユに到着した二人はクラブの練習場に向かった。
練習グラウンドでは選手とコーチや監督たちが和気あいあいと練習していた。しかし練習の質は低く緊張感も欠けているようにピエールには見えた。
「どうだ、その選手は見当たるか?」
「……いや、いねえな」
そこでピエールは通りかかったチームのスタッフにジャンについて聞いてみた。
「彼なら、何か月も前に辞めたよ」
「えっ、なぜですか?」
「他に夢が見つかった、と言っていたが……本当はどうなんだか」
「どういうことですか?」
スタッフは答えたくない様子だったが、ピエールが事情を話すと、重い口を開いた。
「あまり言いたくはないが彼は独善的でね。自分の正しさばかりを主張してチームメイトとの衝突が絶えなかったんだ。監督やコーチの話にも耳を傾けなかったし、チームの中で孤立していたんだ」
結局、収穫が無いままピエールたちはマルセイユの練習場を出た。
「辞めちまってたなら、代表に選ばれてなくても仕方ねえな」
ナポレオンが言う横で、ピエールは考えていた。
(さっきのクラブの緊張感の無さ。その中で自分の「正しさ」を主張しつづけたジャン……)
「まァ、そんなにチームメイトとケンカしてたら、チームにはいられねえよな」
「ナポレオンがそれを言うのか」
「うるせェ」
そんなことを話しながら二人が駅に向かって歩いていると、近くの公園から子供の元気な声が聞こえてきた。公園では、やや小柄な少年が6、7歳くらいの男の子と女の子と一緒にサッカーをしていた。
ピエールは軽く眺めてその場を過ぎ去ろうとしたが、ナポレオンが呼び止めた。
「……ピエール、あいつがジャンだ」
そう言われて、ピエールは公園でサッカーをしている小柄な少年に再び目を向けた。
「間違いないのか?」
「あの生意気な顔は忘れねえよ」
「そうか」
ピエールはうなずくと、いきなり公園の中へと走りこんだ。そして一直線にジャンの元へダッシュすると、瞬く間にその足下からボールを奪いとった。突然の闖入者に目を丸くする男の子と女の子。当然、ジャンも驚いたようだが、すぐに男の子と女の子をかばうように、二人の前に立った。
「いきなり何をする。弟と妹を驚かせて、なんのつもりだ?」
「すまない。そちらの二人を驚かせるつもりはなかったんだが」
「ん?」
にらむようにピエールの顔を見ていたジャンが驚きの声をあげた。
「キミはジュニアユース代表のキャプテン、エル・シド・ピエール!」
と、もう一人もその場にやってきた。
「よォ、ジャン。オレのことを覚えてるか?」
「……ルイ・ナポレオンだろ。できれば忘れたかったよ」
ジャンは好意を含まない声で答え、二人を見た。
「で、ジュニアユース代表の二人が、何の用だい?」
「ナポレオンからキミのことを聞いてね。ぜひ勝負がしたいと思って来たんだ」
ピエールは足下におさめたボールを蹴りあげ、軽くリフティングする。ただのリフティングにもかかわらず、そのテクニックには華があり、ジャンの弟と妹は目を輝かせながらピエールを見た。
「どうだろう、ナポレオンを抑え込んだというキミの実力を見せてくれないか」
しかし、ジャンは沈んだ表情で首を横に振る。
「断る。本格的なサッカーはもう辞めたんだ」
「言い訳すんなよ。負けるのが怖いだけだろ?」
ナポレオンの挑発にジャンは一瞬、眉を逆立てたが、何も言わない。だが、ジャンの弟と妹が怒りの表情で激しく言い返した。
「兄ちゃんはすごいんだ! 絶対に負けたりしない!」
「そうだそうだ! このお兄ちゃんもすごく上手だけど、ジャン兄ちゃんのほうがもっと上手だもん!」
ジャンの弟と妹はジャンを見上げた。
「兄ちゃん、なんで黙ってるんだよ!」
「そうだよ! わたし悔しいよ!」
「……わかった」
ジャンはため息をつくとピエールに向き直った。
「せっかく来てくれたんだ、勝負しよう。だけど、これは弟と妹のためだ、キミのためじゃない」
「それでもいい」
ピエールはうなずいた。
「一分間の一対一。その間におれからボールを奪えればきみの勝ちだ」
「わかった。シャルル、エマヌエル、下がってろ」
促されたジャンの弟シャルルと妹のエマヌエルは兄から離れる。
ナポレオンはスマホのストップウォッチアプリを起動し、一分でアラームが鳴るようにセットした。
「二人とも準備はいいか?」
その問いに応えないことが、二人の準備の表れであった。
「ちっ……よし、キックオフだ!」
ナポレオンの合図と同時に、ジャンが直線的なタックルを仕掛けた。対してピエールはボールを浮かせると太ももの裏とふくらはぎの間にボールを挟み、ジャンプしてそのタックルをよける。しかしかわされたジャンはタックルの反動を利用して再びピエールに襲いかかる。その反応の速さと勢いはピエールの予測をやや越えていた。
「くっ!」
すんでの所でかわしたピエールはジャンの力に戦慄した。
(この感覚……タロー・ミサキと勝負した時と同じだ!)
パリの公園と代表合宿で二度対戦した日本人の少年のことがピエールの頭をよぎる。力の質は異なるがジャンの実力はミサキに勝るとも劣らない。ピエールの闘志が沸き立った。
「来い、ジャン!」
「フッ、そうでなくては!」
その後もジャンは鋭くピエールに迫り、ピエールはあらゆるフェイントを駆使してジャンをかわす。二人の位置はめまぐるしく入れ替わり、シャルルとエマヌエル、そしてナポレオンも手に汗を握って勝負を見守った。
「ああっ、惜しい!」
「兄ちゃん、頑張れ!」
「ピエールと互角にやり合うかよ……!」
そして残り時間がわずかになったその時、ピエールのフェイントがジャンに初めて読まれた。
(しまった!)
「もらった!」
ピエールはボールを奪われまいと、ジャンはボールを奪おうと、鋭い振り足でボールを蹴った。ボールは大きな音をたてて二人の上空に跳ね上がる。
「これが最後の勝負だ!」
「負けはしない!」
ピエールとジャンが同時に跳躍する。身長で勝る自分が有利だと思ったピエールだったが、ジャンの跳躍力は予想以上だった。
「なにィ!?」
空中での競り合いに勝ったのはジャンだった。体勢を崩したピエールが先に着地する。
「やった!」
シャルルが喜びの声をあげる。しかしピエールはまだあきらめてはいなかった。
「まだだ!」
素早く体勢を立て直すと、ジャンがボールと共に着地する寸前に足を伸ばしたのだ。そして鎌のようにジャンの足下からボールを刈り取った。今度はジャンが体勢を崩して倒れ込む。その瞬間、ストップウォッチのアラームが鳴った。
シャルルとエマヌエルがジャンに駆け寄った。
「今の、兄ちゃんの勝ちだよね! ボール取ったもんね!」
「いや、ボクの負けだ」
ジャンは芝生に座り込んだまま言った。
「ピエールの足下からボールを離しはした。だけどキープできなかった。あれでは「奪った」とは言えない」
「だが、おれが勝ち切ったとも言い難い」
ピエールは座り込んでいるジャンに手を差し伸べた。ジャンがその手を握って立ち上がる。
「しかし、どうしてあのフェイントが読めた? この勝負でまだ使っていないものだったのに」
「ああ、あれか」
ジャンは服についた芝を払った。
「この前のオランダ戦では使っていただろう。その時に癖を見つけていたから、奪えると思ったんだけどな」
ジャンは自嘲気味に言ったが、ピエールは内心で驚いていた。自分のテクニックは誰にでも見切れるようなものではない。絶対に。
「あの試合を見ていたのか」
「ひどかったね。ああも守備がボロボロでは、たとえキミがいてもどうにもならない」
ジャンの口調が熱を帯びた。
「少なくとも相手のキーマンに一対一で勝てるDFが必要だ。そうすればキミが攻撃に専念できるし……まァ、ナポレオンだってそれなりのFWだ」
「それなりだァ!? フランスナンバーワンストライカー様に向かって言ってくれるじゃねえか!」
激昂するナポレオンをなだめながらピエールは言った。
「ジャン、おれたちが来たのは、実はそのためなんだ」
ピエールはジャンにジュニアユース代表の追加セレクションのことを説明した。それを聞いたシャルルが顔を輝かせた。
「そのセレクションってやつに行けば兄ちゃんも代表に入れるの!?」
「確実とは言えない。けれど彼の実力ならば可能性は高いと思うよ」
丁寧にピエールが答えると、エマヌエルが興奮して言った。
「ジャン兄ちゃん、行ってきなよ!」
だがジャンは首を横に振った。
「遠慮しておくよ。ボクはもうサッカーへの情熱がなくなったんだ」
「いや、そんなはずはない」
ピエールは強い調子で断言した。
「サッカーへの情熱を失った者がジュニアユースの、それもただの強化試合を見たりはしない。おれのプレイやチームの戦い方を分析したりもしない」
「それは……」
言いかけて沈黙してしまったジャンに、ピエールは続けた。
「どんな事情があってきみがクラブを離れたのか、それを聞こうとは思わない。だけど、これだけは約束しよう」
ピエールはジャンの目をまっすぐに見つめた。
「たとえ他人と異なろうと、自分のプレイや意見を通してくれて構わない。それがフランスを優勝させるために正しいものであれば、おれは受け入れるし、皆にも受け入れさせよう。チームのキャプテンとして」
「ピエール……」
その時、ナポレオンがスマホを見て言った。
「おっと、そろそろ帰りの列車の時間だぜ」
「ジャン、代表で待っている。奪われたフランスの誇りを、おれたちの力で取り戻そう」
「ま、オレは期待してねえけどよ。じゃあな!」
去って行くピエールとナポレオンの後ろ姿を黙って見送るジャン。そのジャンを幼い弟と妹が寂しそうな目で見あげていた――。
その日の夜。ジャンはベッドに入ってからもなかなか寝付けないでいた。
クラブを辞めた後、ジャンは父の仕事でもある漁師になると決め、父にその技術を教わっている。明日も父の漁についていくため、かなり早起きをしなくてはならなかった。
けれど、眠れなかった。昼間に出会ったピエールの言葉が頭から離れなかった。
(他人と異なろうと……優勝させるために正しいものであれば……か)
ジャンはベッドを降りて自分のパソコンを立ち上げた。そして録画しておいたフランスとオランダの強化試合の映像を再生する。
(フランスの弱点の守備。ここにボクが入ればピエールは攻撃に専念できる。そうすればきっと優勝だって――)
今の代表DFの誰よりも自分の方が優れている。ジャンにはその自信があった。
(でも……)
ジャンの脳裏にチームを去るまでの数々のチームメイトやコーチ、監督の言葉がよみがえる。
『ジャンがチームにいると雰囲気が悪くなるんだよ』
『何を偉そうに指示しやがるんだか』
『必死にやってますって顔して、和を乱してるのがわからないかねェ』
『おまえは言われたとおりにプレイすればいいんだ』
『監督として、指示に従わない選手はもう使わない』
(ボクは間違っていない。事実、ボクが危惧したとおりになって負けた試合はたくさんあったんだ!)
しかし、主張すればするほどチームからは疎外され、友達だったチームメイトとも交流がなくなっていった。
(誰も理解してくれないなら、ボクがクラブにいる理由はもう無い)
そう悟ったジャンはクラブを辞め、別のクラブに行こうとした。だが、ジャンの評判はあちこちに伝わっていて、どのクラブも彼を受け入れてはくれなかった。
(だからボクはサッカーを辞めた。大好きなサッカーを、これ以上苦しい思い出にしたくなかったんだ)
ジャンは両親にサッカーを辞めた理由を話さず、ただ「漁師になりたい」とだけ言った。幸い、両親は何も聞かないでいてくれた。弟と妹も最初はうるさかったが、やがて聞かなくなった。
それから半年以上、父と共に何度も漁に出て仕事も覚えてきた。父のような立派な漁師になりたいという気持ちも本当に芽生えてきた。
(これでいいんだ)
ジャンはずっと自分にそう言い聞かせてきた。
(もしボクがまたサッカーをはじめたって、どうせまたそのチームで波風を立てるだけだ)
しかもそれが代表となればなおさらだ。全ての人にとって不幸な結果になるのは目に見えている。
しかし。
(でも、ピエールの言葉が本当なら――)
と、その時、部屋のドアがノックされた。
「ジャン、起きているか」
「父さん?」
ジャンはパソコンの画面を消した。
「ゴメン、もう寝るよ。明日、早いもんね」
「いや、そうじゃない。ちょっと話があるんだが、いいかな」
「話?」
いぶかりながらジャンは部屋のドアを開けた。ジャンの父親は部屋に入ると、パソコンをちらりと見て床に座った。ジャンも父親の正面に座る。
「シャルルに聞いたよ。フランス代表の選手が、おまえをセレクションに誘いに来たって」
「……ああ、そのことか」
「でも、断ったそうじゃないか。どうしてだい?」
「決まってるじゃないか。ボクはもうサッカーには興味がない。父さんのような漁師になることが目標なんだ」
はっきりとした口調でジャンは言った。しかしその時、ジャンの視線は父親から外れていた。
そんな息子をじっと見つめて、ジャンの父親が言う。
「本当に、そうかい?」
「えっ」
「小学生になる前からずっと言っていただろう。将来はプロサッカー選手になってワールドカップで優勝するんだって。本当にその夢を諦めることができたのかい?」
「それは……」
ジャンは言いよどんだ。言いよどめば、それ自体が答えになってしまうことはわかっていた。けれど言葉が出てくれなかった。
ジャンの父親は優しく微笑んだ。
「ジャン、おまえはまだサッカーが好きなんだろう?」
「……」
「おまえが漁師になりたいって言ってくれたことは素直に嬉しい。けど、おまえにはおまえの本当の夢を追いかけてもらいたいんだ。親のわがままだって言われるだろうけど、子供の夢を応援することが親の幸せだからね」
「……確かに、ボクはまだサッカーが好きだよ。でも、サッカーはもういいんだ」
やはり父の顔を見ずに、ジャンは言った。
長い長い沈黙の後、ジャンの父親がゆっくりと口を開いた。
「ジャン、人から信頼されるためには、まず相手を信じることが大事なんだよ」
「……!」
「だから、自分を信じてくれた人のことを信じてみなさい。セレクションに誘ってくれた代表の選手たちは、きっとおまえを信じて来てくれたのだから」
そう言うとジャンの父親は笑顔で「おやすみ」と残して部屋を出て行った。
ジャンはベッドに寝転がった。そして天井を見つめ、ゆっくりと大きく息を吐いた。
代表セレクション当日。雲一つなく晴れ渡った絶好のスポーツ日和。セレクション会場のスタジアム周辺にはフランス全土から代表を狙う選手たちが集まっていた。
その中にジャンの姿もあった。わざわざ自分をたずねて来てくれたピエールたちに、そして自分の背中を押してくれた家族に感謝しながら。
ジャンは目を閉じ、今朝、家を出る時のことを思い出した。
とびきりの笑顔で応援してくれた弟と妹。
気合いを入れるために思い切り背中をたたいてくれた母。
そして、息子を見つめ、ただうなずいた父。
ジャンの頭に数日前に父にかけられた言葉がよみがえる。
(人から信頼されるために、人を信じる――)
父はジャンがサッカーを辞めようとした本当の理由をわかっていた。それでも信じていたのだ。息子が失意から立ち直って、再び夢に向かって歩き出すことを。
(ありがとう、父さん) ジャンはまぶたを開き、スタジアムを見上げた。その目には強い決意と自信がみなぎっている。
(エル・シド・ピエール。キミの言葉、信じさせてもらうぞ!)